寄稿
テレビドラマ番組 [最優秀賞]
三年たってやっと でした
『テレビ朝日開局55周年記念 山田太一ドラマスペシャル 時は立ちどまらない』は、東日本を襲った地震と津波で、被害をまぬがれた家族と、家と肉親を失った家族、ふたつの家族模様を描いている。
この作品は、「震災直後ではなく、3年たった今だからこそ見えてくるもの、ドキュメンタリーでも報道でもなく、ドラマでしか描けないものがあるのだと思う」「フィクションという形でなければ伝えられない被災地の真実を描いている」などと評価され、最優秀賞を受賞した。
「時は立ちどまらない。だから絶望も幸福もそのままでいることはない」そんなメッセージをもったこの作品について、山田太一さんの思いを綴っていただいた。
私たちのつくったドラマに最高の御評価をいただいてスタッフ、キャスト一同「ああ、ちゃんと見てくれていた人たちがいたんだ」と報われた喜びを静かに味わっています。ありがとうございます。
東日本の大地震大津波の映像と現実を前にして、ただ自分の無力に震え絶句するほかなかったドラマのライターは私だけではなかったでしょう。事実、この選考委員のお一人の竹山洋さんが受賞式のプログラムにその苦しみを書いていらして、ああみなさんきっとそうだったんだと少しほっといたしました。
あの惨状を前にして空疎な励ましのドラマなどとても書けません。宗教や哲学を動員して聞いた風なことも書けない。それでも尚ジタバタしましたが、うまく行きませんでした。
その間に、3・11についてのドキュメンタリイをテレビで沢山見ました。浴びるように見たといってもいい。秀作が次々に現われました。あれほどの災害です。事実をとり上げるだけでも胸を打たれます。ひがんでいうわけではありませんが、ドラマにしたら歯の浮くような美談でも、その体験の当事者が「どんなに励まされたか分らない」と涙を浮べて語るのを見せられれば文句のつけようもなく感動してしまいます。
いえ、そういう素朴な記録が多出するのは当然で、しかしその一つ一つがなまじのドラマより胸を打つことに圧倒されていました。その上、方法や認識に深度のあるドキュメンタリイも少くなかったと思います。やはり起ってしまったことの無常無惨が映像をつくる人たちをも鍛えるのだろうかという感慨が湧いたりしました。
それから、やがて、というか、やっとというか、それらのドキュメンタリイから欠落しているものに気づいて来ました。今更、いい齢をしたドラマライターの告白として情けない限りですが、そしてごく当り前のことなのですが、ドキュメンタリイは映像になる事実や人物がいなくてはどうにもならないこと、そして撮影を許してくれた人のマイナスはなかなか描けないこと、見せたがらない内面には立入れないし、ましてや本人も気がついていない暗部などは描きようもない。
そして、そこにこそのドラマの領域があるのではないかということ。われながら高校生にでもなったみたいですが、そんな当り前の役割を、あの途方もない津波の惨状をつきつけられて、ほとんど無意識に封印していたことに気づいたのでした。
とり返しのつかない悲劇の中にいる人々に、ドラマライターがやるべきことは、なによりさしあたっての気ばらしでもいい、元気になること、生きる力に少しでも役に立つこととと思いつめていたのでした。
それはたぶん社会の思いをリードする役割の人たちの気持でもあったのかもしれません。「みなさんは一人じゃない。日本中が、いや世界中が、被災した人たちの力になろうと手をさしのべている。あなたたちを忘れることなどない。あちこちに新しい絆が結ばれているじゃないか。日本中に絆が―」というようないわれ方が流布しました。私は「絆」という重い言葉が気軽に使われることへの違和感をぬぐえませんでしたが、「これは緊急避難の、とりあえずの便利な言葉なのだ」と納得しようとも思いました。
どうせしばらくたてば、本当の絆は少しだと気がつかざるを得ないだろうし、「あなたたちを決して忘れない」という言葉の偽善にも気がつかざるを得なくなるだろう。しかし、被災してすぐの今はそんな本当を口にする時ではなく、感傷だろうと元気になれる言葉が薬なのだ、私たちは、本当だけで元気になれるほど強くないのだと、励ましの言葉を手にしようとウロウロしていたのでした。
津波から三年目の三月に合せて、津波のドラマをつくらないか、という企画をテレビ朝日からいただいたのはその前年のはじめのころだったと思います。まかせるからやってみないか、全力でサポートする、と。
広域にわたる実にさまざまな人たちの悲劇は、どういう人生を描いても「そんなもんじゃない」「分ってない」「ちがう」「甘い」の非難は避けられないだろう、しかし、私には、書きたい世界がありました。それは、「緊急避難」の時期には口にしにくい「本当」のいろいろに少しでも近づくことができないかという試みです。
このドラマの取材ではありませんでしたが、津波から数ヶ月たったころ、私は石巻を訪ねていました。日和山という、山というより小高い丘の住宅地で、その頂上に小公園がありました。おだやかな日で、住宅地もしんとして人影もありませんでした。案内をしてくれる人のいうままに柵に近づき、そこから海を見ました。その手前を見ました。見下しました。海からその山までの間にひろがる実に広大な地域が潰滅していました。目を戻すと、どこにでもある何事もないような住宅地です。その容赦のない差異に胸をつかれました。この両方を書きたいと思いました。両方のつらさと悲しみといくらかの幸せを書けないか、と思いました。
プロフィール
山田 太一 さん (やまだ たいち)
1934年東京・浅草生まれ。早稲田大学卒業後、松竹大船撮影所に入社。助監督として、主に木下恵介監督の作品につく。三十歳で退職、以後、テレビドラマの脚本を中心に、小説、戯曲、映画シナリオ、エッセイを書いて現在に至る。
芸術選奨、NHK放送文化賞、山本周五郎賞、毎日芸術賞、向田邦子賞ほか多数受賞。