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HOME読む・楽しむ「字引は小説より奇なり」 NHKエデュケーショナル 佐々木 健一

読む・楽しむ 放送文化基金賞特集
放送文化基金賞の受賞者へのインタビュー、対談、寄稿文などを掲載します。

2014年9月30日
第40回放送文化基金賞

寄稿

テレビエンターテインメント番組 [優秀賞]

字引(じびき)は小説より奇なり」
~『ケンボー先生と山田先生』誕生秘話~

NHKエデュケーショナル 佐々木 健一

佐々木 健一さん(ささき けんいち)
NHKエデュケーショナル 特集文化部 特集事務局
主任プロデューサー

 「国語辞書と編纂者の番組?……なんて地味な(笑)」
 「そもそも辞書ってどれも似たりよったり。番組になるような人間ドラマなんてないでしょう?」
 大概のテレビマンなら企画段階でこう思うに違いありません。国語辞書については、2012年に小説『舟を編む』が本屋大賞を受賞し、映画化されるなど注目を集めていましたが、あくまでフィクションの世界。ドキュメンタリー番組として取り上げるには不向きな題材、というのが企画当時の“常識的”なムードでした。しかし、それは違いました。
 「字引(じびき)は小説より奇なり」。今回の番組は、この一語に尽きます。
 すべての始まりは、今、日本で最も売れている国語辞書『新明解国語辞典』(以下、『新明解』)の第四版に登場する不思議な用例でした。

 【時点】一月九日(・ ・ ・ ・)の時点では、その事実は判明していなかった」(『新明解』四版)

 妙に具体的な謎の日付「一月九日」が書かれていました。この用例は以前、『新明解』特有のユニークな語釈や用例を取り上げ、ベストセラーとなった赤瀬川原平著『新解さんの謎』でも触れられています。謎の日付に対し、

 「一月十日にはわかったのか。辞典なのに新聞みたいだ」(『新解さんの謎』)

とツッコミを入れ、読者の笑いを誘う。企画を練り始めた当初の私も「変な記述だなぁ」と一笑し、通り過ぎていました。のちにこれが、番組内容を左右するほどの“発見”をもたらすとは想像もしていませんでした。

 この番組は、『三省堂国語辞典(以下、『三国(さんこく)』)』の生みの親・見坊豪紀(けんぼうひでとし)と『新明解国語辞典』の生みの親・山田忠雄という二人の編纂者の五十年に及ぶ情熱と相克の物語です。
 実は、『三国』と『新明解』は同じ出版社「三省堂」から刊行されていますが、編集方針や記述形式が全く正反対の辞書。しかし、ケンボー先生と山田先生は元々は東大の同級生で、戦中の二十代から協力し一冊の国語辞書を作り上げてきた良友でした。その二人がなぜ、ある“時点”で袂を分かち、二冊の辞書を別々に編むに至ったのか―。
 番組の放送から遡ること半年あまり。取材を始めた私はある日、様々な関係資料を濫読する中でふと、ある証言記録に目が留まりました。生涯、双方と交流があった編纂メンバー・柴田武氏の証言でした。

 柴田 「一月九日(・ ・ ・ ・)かなんかだった。打ち上げがあったんですよ」(『明解物語』)

 「一月九日」。その日付は、証言が書かれた無数のことばの中に、不意に、ただひっそりとありました。まるで会話の中に偶然紛れ込んだノイズのように……。
 「一月九日」はその証言によると、『新明解』初版の完成を祝う打ち上げが行われた「昭和四七年一月九日」のことでした。と同時に、二十代から辞書作りを共に進めてきたケンボー先生と山田先生にとっては、その関係に決定的な亀裂が生じた日でした。その日付を、なんと山田先生は晩年になって、『新明解』第四版の【時点】の用例に密かに記していたのです。
 まさか国語「辞典(・ ・)」を巡る謎が、【時点(・ ・)】の用例から紐解かれるとは……。
 何度もこの証言記録は読み返していましたが、その瞬間まで「一月九日」が持つ重大な“意味”に考えが及ぶことなどありませんでした。しかし、いったん「一月九日」の秘められた“意味”に気がつくと、それまで無味乾燥なものと思い込んでいた辞書の記述が、二人の編纂者の心情や葛藤まで吐露された記述かもしれない、と思うようになりました。
 そこで、「一月九日」以外にも二人の関係をにおわせる記述がないか、さらに取材を進めました。すると、単なる気まぐれでは片付けられない不可思議な記述が、次々と見つかったのです。中でも特に印象深いのが、ケンボー先生が記した副詞【ば】の用例です。

 【ば】「山田(・ ・)といえば、このごろあわないな」 (『三国』二版)

 この用例が書かれたのは、二人の間に確執が生まれ、没交渉となったまさにその頃でした。ケンボー先生は生涯、「客観記述」を貫いた編纂者でしたが、『三国』に個人的な心情と思しき用例を記述しているとは思いもしませんでした。
 そんなケンボー先生が記した中で、私が最も好きな語釈が【常識】です。

 【常識】その社会が共通にもつ(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、知識または考え方。(『三国』三版)

 「その社会が共通にもつ」というたった十文字に、「常識とは、社会や状況によって変わるもの」という意味を込めていたのです。
 今、巷では「最近のテレビはつまらなくなった」と囁かれています。一つの業界・組織が長くあると、自然と「その社会が共通にもつ常識」が形作られるのは必然です。しかし、視聴者は今のテレビ業界に漂う常識に嫌気がさしつつあるようです。私を含め、これからのテレビマンは自ら、自分たちの常識を乗り越えていかなければならないと思います。
 なぜ、あの時、「一月九日」に目が留まり、無関係と思い込んでいた資料の「点」と「線」が結びついたのか、自分でもよくわかりません。この企画も当初は、「『新解さんの謎』のようなユニークで笑える記述をベースに、シチュエーションコメディ構成にしては?」などとアドバイスを受けました。しかし、それでは従来の常識に則った番組に過ぎません。安易な慣例に依らず、先入観なしに取材対象と向き合う地道な作業の中からこそ、常識を乗り越える“アイデア”や“発見”が見出されるのだと番組を通じて学びました。

出版社:文藝春秋

『ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~』を元に、番組では割愛したエピソー ド、取材秘話、放送後に明らかになった新事実などを盛り込み、ディレクター自ら書き下ろした“昭和辞書史最大の謎”に迫るノンフィクション。第62回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

プロフィール

佐々木 健一 さん (ささき けんいち)
NHKエデュケーショナル 特集文化部 特集事務局 主任プロデューサー
2001年NHKエデュケーショナル入社。「にっぽんの現場」、「仕事ハッケン伝」などを担当し、「みんなでニホンGO!」、「哲子の部屋」などの番組開発を手がける。NHK以外でも、「ヒューマン・コード」(フジテレビ)、「知られざる国語辞書の世界」(BSジャパン)など特別番組の企画・制作を行った。

2014年9月30日