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HOME読む・楽しむ病みすてられた人びと ~ハンセン病強制隔離は人権侵害~ 宮﨑 賢

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放送文化基金賞の受賞者へのインタビュー、対談、寄稿文などを掲載します。

2017年8月23日
第43回放送文化基金賞

寄稿

個人・グループ部門[放送文化]

病みすてられた人びと
~ハンセン病強制隔離は人権侵害~

RSKプロビジョン カメラマン 宮﨑 賢

 この度、栄えある放送文化基金賞で個人として表彰していただき感謝申し上げます。
 受賞理由として「1982年以来、長島愛生園のハンセン病患者・回復者の置かれてきた状況と半生を克明に捉え、そのニュースや番組は強制隔離や監獄措置、特別法廷など人権無視の実態を鋭く告発した」との言葉は身に余る光栄なことでした。
 そして、何代にもわたってハンセン病問題を継続報道してきた山陽放送報道部記者の皆様に感謝します。

愛生園の入所者に出会って

長島(岡山県瀬戸内市)

 長年の交流がある長島愛生園の阿部さん夫婦に「今、思うこと、伝えたいことは?」と聞いてみた。阿部さんは13歳で隔離されて、島での暮らしが80年になる。
  「背中に隔離と書いて貼って歩いて来た人生だった」「なんで絶対隔離なのか。療養所の中で死んでもらうということが国の政策。戦争中は働かなければ非国民と蔑まれた」と未来を奪われた人生を振り返る。
 ハンセン病は1873年に「らい菌」を発見したノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン医師にちなんでこの病名が付けられた。ハンセン病は「らい菌」の感染により、主として末梢神経と皮膚がおかされる慢性細菌感染症で、他の細菌感染症と同様に、化学療法剤や抗生物質で治癒が可能な病気だ。
 瀬戸内海に浮かぶ長島(岡山県瀬戸内市)には、1930年に開園した国立第1号のハンセン病療養所・長島愛生園と、1938年に開園した邑久(おく)光明園(前身は1909年、大阪市西淀川区に開設された府県連合立の公立ハンセン病療養所、外島保養院)の二つの療養所がある。
 私が初めて長島を取材したのは、今から35年前。厚生大臣が長島架橋予定地点を視察に訪れた時だった。
 1980年代、瀬戸大橋工事が進む中、長島では入所者が離島隔離からの解放を求め、「人間回復の橋」をスローガンに架橋運動が進められていた。
 その時に初めてハンセン病回復者に出会った。島に船が着いたとき、私は足がすくむ思いがしたことを記憶している。そこにはハンセン病は「恐ろしい伝染病」だと思っている差別者の私がいた。今となっては、当時の誤った認識を恥じている。
 架橋促進委員長の加川さんが厚生大臣に「島流しの生活を一日でも早く終わらせて欲しい」と訴えた言葉が胸にグサッと突き刺さった。この問題を伝えたいと思った。
 長島の西の端の狭い海峡は、わずか22メートル。社会とハンセン病入所者を遮断する壁となって立ちはだかっていた。
 対岸の住民からは「患者は汚い、汚いですよ」「橋が出来るのなら、患者にクニ(故郷)に帰ってもらえ」と、入所者への屈辱的な冷たい言葉が聞こえてきた。
 長島愛生園の詩人、島田等さん(故人)はインタビューで「国民は無関心という形で強制隔離政策に協力してきた」「国民も隔離政策の加害者としてハンセン病問題を考えて欲しい」と、ハンセン病患者が市民社会から排除された事を静かに語った。私もその言葉にハッとし、自分が加害者だと気づかされた。

『もうひとつの橋』

『もうひとつの橋』取材風景

邑久長島大橋

 1983年にドキュメンタリー『もうひとつの橋』を撮影。
 しかし、ここにも壁があった。入所者自治会から「番組は山陽放送のエリアの岡山・香川地域に限定してほしい」という条件が示された。
 国が主導した「無らい県運動」で、ハンセン病患者は、地域住民の密告・通報システムによって社会から排除された。残された家族は「村八分」に遭い、結婚・就職などで深刻な偏見・差別を受けている。放送エリア限定の条件には、これ以上家族に被害が及ばないように、という入所者の思いがあった。
 撮影にも入所者の抵抗があった。多くの入所者から映ることを拒まれた。「汚い顔を撮るな」「映ると家族に迷惑がかかる」自治会に連日抗議が殺到した。
 深いテーマに心が折れそうになったこともある。そんな時、上司から「後ろ姿にも表情があるぞ」とアドバイスをもらった。もやもやが、すーと晴れた気分になった。レンズのフレームに入る入所者には、一人ひとりに声をかけ、対話と誠実な取材を心掛けた。入所者は少しずつ心を開いてくれた。
 1988年5月に「人間回復の橋」邑久(おく)長島大橋が開通した。
 入所者は「これで普通の人間に戻れる」「島流しの生活から解放された」と喜び、悲願の橋を、一歩一歩、陸続きになった事を確かめるように渡った。
 橋は「人間差別との闘いのシンボル」として、人権侵害の負の歴史を今に伝えている。

『生きとった証し』

愛生園にて、自治会長の中尾伸治さんと

 2002年にドキュメンタリー『生きとった証し』を撮影・編集。
 1996年、国は延々と89年間も続けた強制隔離の法律「らい予防法」を廃止したが、法の過ちは認めなかった。
 宇佐美 治さん(91歳)は、長島愛生園に戦後の1949年に強制隔離されてから68年、人生のほとんどを島に隔離されて生きてきた。
 療養所では、ハンセン病患者は「祖国浄化政策」で、結婚の条件に優生手術(断種)を強制された。女性が妊娠すると堕胎が行われ、尊い命が奪われていった。
 療養所の中には収容所・監房・火葬場・納骨堂があり、患者を島に閉じ込めて死に追いやる、非人道的な政策が行われてきた。
 宇佐美さんは「人間らしく生きられなかった」悔しさがあるという。
  「ここへ入ってラーゲル(収容所)に入ったなと思った」「愛生園は『アウシュビッツ』だった。終戦の年、昭和20年には一年で332人が死んだ。一日に6人が亡くなった日もある。過酷な強制労働と無治療ですよ。ひどすぎます」。入所者が人間扱いされなかったと証言。
 2001年、熊本地方裁判所は「らい予防法」は憲法違反として原告勝訴の判決を下した。宇佐美さんは原告勝利に「嬉しいです。勝訴を梃子(てこ)に、これからハンセン病回復者と、その家族の不当な偏見、差別の解消のために頑張っていきたい」と勝利を喜び、その闘いは「生きとった証し」と前を向いた。
 
  ハンセン病療養所は、私にとって、報道カメラマンとして成長させていただいた「磁場」であり「恵」だった。
 日本のハンセン病政策が覆る時代を35年間継続映像報道し、12本のドキュメンタリー番組と120本のニュース特集で人権侵害の歴史を伝えたことを認めていただいた事は、私の人生の記念樹となった。
 ハンセン病療養所は終焉期を迎えつつあり、瀬戸内3園(長島愛生園・邑久光明園・大島青松園)では人権侵害の歴史を残し人権を学ぶ場として、世界遺産登録を目指す活動が始まっている。ハンセン病問題は、まだ終わっていない。これからもこの問題に地道に向き合い、かかわっていきたい。

プロフィール

宮﨑 賢 さん (みやざき けん)
RSKプロビジョン ニュース部 カメラマン
1953年生、岡山県和気町出身。1971年山陽映画(現RSKプロビジョン)入社。1972~2017年RSKイブニングニュースカメラマン、1986~1988年RSK特集チーフカメラマン。『もうひとつの橋』(1983年)で地方の時代映像祭大賞受賞。『生きとった証し』(2002年)で民間放送連盟報道部門優秀賞受賞。放送人の会『放送人グランプリ特別賞』受賞(2014年)。報道特集『隔離された法廷と司法の責任』(2017年)でギャラクシー賞奨励賞受賞。