HBF 公益財団法人 放送文化基金

文字サイズ:

HOME読む・楽しむ水俣病の終焉は見えない   吉崎 健×東島 大×吉田 喜重

読む・楽しむ 放送文化基金賞特集
放送文化基金賞の受賞者へのインタビュー、対談、寄稿文などを掲載します。

2017年10月2日
第43回放送文化基金賞

鼎談

テレビドキュメンタリー番組 [奨励賞]

水俣病の終焉は見えない

吉崎 健×東島 大×吉田 喜重

 「ETV特集 水俣病 魂の声を聞く~公式確認から60年~」(NHK熊本放送局、NHK福岡放送局)がテレビドキュメンタリー部門の奨励賞を受賞。贈呈式の翌日、吉田喜重委員長がディレクターの吉崎健さん、記者の東島大さんに話をきいた。

「ETV特集 水俣病 魂の声を聞く~公式確認から60年~」
 水俣病初期の患者や家族の肉声を記録した貴重な録音テープが残されていた。岡本達明さん(81)は、加害企業・チッソの元社員。40年に渡り500人以上の証言を集めた。番組では、録音された肉声に加え、新たな証言を集め、去年5月1日、公式確認から60年を迎えた水俣病を辿った。
 “第1号患者”田中実子さん(63)は、亡くなった母親が、娘の発病当時を語っていた。「誰も寄りつかんじゃった。村八分にされて」。面倒を見続ける姉の綾子さんは、苦渋の表情で語った。「できれば、私より早く…。私も安心して逝ける」。水俣病患者・家族の心の叫びを聞く。

吉崎 健 さん
(よしざき たけし)

NHK熊本放送局チーフディレクター

東島 大さん
(ひがしじま だい)

熊本県民テレビ報道部次長

吉田 喜重さん
(よしだ よししげ)
テレビドキュメンタリー番組審査委員長

吉田

 ドキュメンタリー番組部門奨励賞受賞おめでとうございます。

吉崎
東島

 ありがとうございます。

吉田

 放送文化基金賞の歴史の中で、NHK、民放問わず何度も水俣病に関する番組が受賞しています。最近では、第39回のときに「原田正純 水俣 未来への遺産」にテレビドキュメンタリー番組賞を差し上げました。公式確認から60年ということもありますが、今回、番組を制作するにあたって、いままでとは違った視点など考えられたと思うのですが、その辺りの事情をお話ししていただければと思います。

東島

 今回の番組の軸になっている元チッソの社員で、労働組合の委員長をしていた岡本達明さんがいらっしゃいますが、ずっとこの方を取材したいと思っていました。
 3年前ぐらいですか、岡本さんが水俣病の発生以前から今に至る歴史を聞き書きによって辿った「水俣病の民衆史」という本を執筆中だということを聞いて、その様子も含めてドキュメンタリーを作りたい、岡本達明の仕事というのを記録に残したい、という思いからのスタートでした。

吉崎

 岡本さんは取材を一切受けない方だったんですが、今回は公式確認から60年ということ、執筆も終わったということも重なって取材を受けてくれたんだと思います。東島も長い間交渉を続けてくれていましたから。

吉田

 長い間にわたって取材交渉をされてきたのでしょうか?

東島

 はい。自宅訪問も許されなかったので、毎週電話をかけていました。「執筆はどのくらい進んでいるんですか?」「執筆の様子をデジカメでいいので撮影させてくれませんか?」など。そうしたら「話はそこからではないだろう。お前は水俣のことをどれだけ知っているんだ!」と怒鳴られました。そんなことが3年ほど続きました。
 取材できそうだなと思ったときに吉崎に相談して、どんな番組になるか話し合いました。

患者さんの聞書をする岡本さん

水俣病患者と家族の隠された苦しみ

吉崎

 二人ともNHKに入局して、初任地が熊本だったんです。私はディレクターとして、東島は2年後輩なんですが、記者として。その新人時代に水俣病に出会ったんです。それからずっと水俣病の番組を作り続けてきました。私は入局3年目に水俣病の胎児性患者さんの番組を作って、吉田監督が委員長をされていた地方の時代映像祭で賞をいただきました。それが励みになって今も番組を作り続けています。
 もちろん転勤もありますから、水俣の番組をつくれない時期もありました。今回は、公式確認60年ということで、歴史もきちんと踏まえた上でまだ続いているということを伝えたいと思いました。今一度、原点にかえって、水俣の歴史上、知られてはいるけれど、まだ出会っていない患者さん、長い間取材を受けてこられなかった方々を訪ね歩いて、声を聞くという形にしました。

吉田

 ひとつのテーマを追い続けて番組をつくるということは大変難しいことだと思います。重要なテーマと言っても、それを繰り返し表現することは、マンネリズムに陥る危険がある。それを乗り越えて、たえず新たな視点を見出すための努力は大変な労力がいる。水俣病を追跡したドキュメンタリーが高い評価を得ているのは、取材する皆さんのたえざる努力があってこそと思いますが、同時にそれほど水俣病の問題は依然として深刻であった証しだったからでしょう。
 今回、第一号患者の田中実子さんと、彼女をずっと見続けてきたお姉さんが出ていましたが、この方たちも初めて取材を受けられたのですか?

東島

 有名な方なのですが、取材はこれまでほとんど受けてこられなかったです。ご家族の方が、第一号患者として、そういう目にさらされないようにしていました。

吉田

 被害者でありながら、声を大にしていえない。それが水俣病患者とその家族の隠された苦しみだった。良く理解できます。

吉崎

 今回も最初は難しいかなと感じていたので、お引き受けいただいて、心から感謝しています。
 半世紀に渡って水俣病に向き合ってこられた医師の原田正純さんが亡くなる直前に地元の新聞に、「田中実子さんのことを皆忘れているのではないか。」ということを批判もこめて書かれました。毎年、慰霊式には環境大臣や首相が黒塗りの車で通る国道沿いに田中実子さんがひっそりと暮らしているということをどれだけの人が知っているのかと。お姉さんがその記事をご覧になったことが、取材を受けてくださるきっかけになったのかもしれません。

吉田

 水俣病は発病してすぐ、若くして亡くなる方が多いと思うのですが、田中実子さんは、長生きされていますね。お姉さんの方にも当然同じ症状があると思うのですが、その二人が寄り添いながら60年間あまり生きてきたという、そのことがかぎりなく感動的でした。そういう意味では、この作品を私だけではなく、全国の視聴者がご覧になって、とても感動されるだろうと思いますよ。

終わらない・・・

吉田

 これからは病気ではなく、年齢的に亡くなっていく方が多いと思うのですが。そういうことも踏まえて水俣病の終焉について、どういうイメージをお持ちですか?

東島

 今のままですと、終わりの明確なイメージは持てないでいます。今でも数千人単位で裁判が続いていますし、まだ解決していません。
 日本の高度経済成長の裏返しというか、高度経済成長を止めないために、チッソの水銀排出をとめなかったということもあります。当時の政策を否定することのようにとらえられかねませんが、今の日本の成長は水俣の犠牲の上にあるということを直視しない限り終わらない。それは行政だけでなく、日本人ひとりひとりが認識しない限り終わらないのではないかと思っています。

吉崎

 私は新人の頃からお母さんのお腹の中にいるときに水銀の影響を受けて、生まれながらに水俣病を背負わされた“胎児性患者”の皆さんの取材をしてきました。その多くがもう還暦を迎えています。ずっとお世話してこられたご家族の方々も高齢化し、亡くなられたりして、また次の問題に直面しています。この胎児性患者さんたちがどういう一生を過ごされるのか、見つめ続けていきたいと思っています。また、その次の世代への影響があるのか、ないのかもまだ分かっていないので、そういう意味では、まだ終わらないと思っています。

東島

 国は、水俣病がどういう病気かということを定義しないまま場当たり的に補償をしてきました。この地域の人で体調が悪くなると、自分も水俣病ではないか、という漠然とした不安みたいなのが広がってしまっています。

吉崎

 広範囲に汚染されている海が、昭和43年に工場からの排水が止まって、きれいになったといっても一気にきれいになるわけではないですし、平成9年に水俣湾の「安全宣言」が出されましたが、いつまで汚染があって、どういう影響があるのかということはきちんと調査されていません。水銀の微量汚染の影響など、日本より海外の方が熱心で、研究が進んでいると言われています。本当は水俣病を経験した日本が一番進んでいないといけないのに…。

東島

 中国や東南アジアの国から、水俣に、公害について勉強したいと政府関係者や研究者の方々が来られます。でも、そういう方たちにきちんと伝えることができないというのは、恥ずかしくもあり、亡くなった方たちにも申し訳ないと思います。

吉崎

 福島から来られる研究者や学生さんも多いですね。25年間水俣についていろいろ番組をつくってきましたが、やってもやってもやるべき事があります。水俣を深く掘り下げていけばいくほど、いろんな意味で他の問題にも繋がる構造的な問題も見えてくると感じています。

東島

 福島原発事故の半年後ぐらいに、福島の方から講演依頼がありました。与えられたテーマに愕然としました。「棄民にならないために、今、水俣に学ぶ」というテーマで話して欲しいと言われたのです。結局、水俣は日本の政策のために棄民になってしまった。福島はこのままだと棄民にさせられる。そうならない為に何を学べばいいのかと。確かに共通しているものはあると思います。

吉田

 水俣の公害と原発は日本の負の遺産として、残念ながら歴史上残っていくのだろうと改めて思い知らされました。

水俣病が多発した水俣市月浦の漁港

ドキュメンタリーは物語性を否定する

東島

 吉田監督の広島原爆をテーマにした映画「鏡の女たち」のラストが明快な解決がなかったという風に受け取れたのですが、それと少し似ているところがあるのでしょうか。

吉田

 原爆は人間にとっては表象不可能性なもの。表現できないテーマというのが私の考えです。原爆についてフィクションで描こうとすると、原爆投下直後の悲惨な状況を再現しようとする、それは原爆で亡くなった方たちへの冒涜だと思う。私自身も原爆をテーマにした映画「鏡の女たち」をつくっているのですが、私はいっさい再現することを拒否し、被爆した女性の記憶、それは語る言葉でしか表現しえないものだと思っています。
 水俣病はこれからも後遺症として残るかもしれないという不安があるという意味では、公害の方が罪が深いのかもしれません。人間みずからがつくりだした業の中の最大の業が水俣病だったのかもしれない。それがNHK、民放によって繰り返しドキュメンタリーとして制作されてきた理由だと思います。解決不可能な問題だからこそ、幾度となく問いただされるのでしょう。

東島

 以前、カメラを回した段階でノンフィクションはノンフィクションではなくなると仰っているのを拝見したのですが。

吉田

 そうですね。フィクションとノンフィクションの差はすれすれだと思っています。俳優に演技させて撮っていますけれど、私の中には俳優のドキュメントを撮っているんだという気持ちもあるんですね。映像というのはフィクションで監督がつくっているのか、カメラという客観的なものでドキュメントを撮っているのか、その差というのはすれすれだと。撮っていて俳優の表情がよければ、自分が思っている表情と違っていてもそれでいい。映像が先にあるんですよね。映像の魅力、機能性をわれわれは使わせてもらっている、というのが私の考え方です。
 今回の番組のラストショットで田中実子さんがずっと膝で立って回わりつづけている姿が映し出されていました。その姿は苦しいという言葉以上に我々の胸を打ちます。この映像が賞を差し上げるのに決定的だった。言葉より映像の方が、見る人びとの想像力に強烈に問いかけるからでしょう。そうです、この映像を見ているわたしたちもまた、かぎりなく苦痛に満ちて踊りつづけるのです。

吉崎

 最近は、映像をコメントで説明してしまう番組が多くなっている感じがしていて、私も出来る限り映像の力を信じて編集をしようといつも心がけています。

吉田

 ドキュメンタリーは物語性を否定する。それはフィクションではなく、疑いようのない過酷な現実に触れる、それはドキュメンタリーの魅力だと思います。
 今後、また水俣病の番組をつくりたいという気持ちも十分おありだと思いますし、作るチャンスもあると思うのですが、構想はすでにありますか?

東島

 興味をもっているのは、チッソで30年以上社長を務め、会長などを経て、今年また社長に就任した後藤舜吉さんという方ですね。岡本さんとは東大法学部の同期で、同期入社なんです。水俣病のテーマからは少しずれるかもしれませんが、後藤舜吉という人物を掘り下げてみたいなとは思っています。なかなか難しいとは思っていますが…。

吉田

 それは新しい視点ですね。今までは被害者をテーマにすることが多かったですから。ただ、加害者はなかなか取材に応じられないという事情があるからだと思いますが、ぜひ実現されることを期待します。

プロフィール

吉崎 健 さん (よしざき たけし)
NHK熊本放送局チーフディレクター
1965年熊本生まれ。1989年NHK入局。熊本、東京、長崎、福岡での勤務を経て、現在、熊本放送局チーフディレクター。主な番組に「写真の中の水俣」(地方の時代映像祭優秀賞)、「長崎の鐘は鳴り続ける」(文化庁芸術祭優秀賞)、「花を奉る 石牟礼道子の世界」(早稲田ジャーナリズム大賞)、「原田正純 水俣 未来への遺産」(放送文化基金賞テレビドキュメンタリー番組賞)など。芸術選奨文部科学大臣新人賞(2014年)。

東島 大 さん (ひがしじま だい)
熊本県民テレビ報道部次長
1966年福岡生まれ。1991年NHK入局。2016年7月熊本県民テレビ入社。主な番組にクローズアップ現代「特許は誰のものか・青色LED訴訟」「水俣病 終わらない被害」、ETV特集「日本人は何をめざしてきたのか第2回水俣〜戦後復興から公害へ〜」「日本人は何をめざしてきたのか知の巨人たち第6回石牟礼道子」など。著書「なぜ水俣病は解決できないのか」(2010年弦書房)