対談
テレビドラマ番組 [演技賞]
漱石のロック精神を演ずる
「土曜ドラマ 夏目漱石の妻」(NHKエンタープライズ、NHK)は、明治という激動の時代に夫婦として成長していく二人の姿を、漱石の妻・鏡子の視点で描く物語。番組は、演出、美術などのスタッフワークが素晴らしく、極めて質の高い作品として優秀賞を受賞。尾野真千子さんと共に主演を務めた長谷川博己さんには、作品世界を知的に理解し、緻密な分析に基づいて新たな漱石像を造形したとして演技賞が贈られた。
7月4日にホテルオークラ東京で行われた贈呈式の直前に、テレビドラマ番組の河合祥一郎審査委員長が、長谷川博己さんにお話を伺った。
長谷川 博己 さん (はせがわ ひろき)
俳 優
1977年東京都出身。2001年に文学座附属演劇研究所に入団。翌年、「BENT」で初舞台を踏む。近年の主な主演作品に、TVドラマ「鈴木先生」(2011)、「雲の階段」(2013)、「獄門島」(2016)、「小さな巨人」(2017)、映画 「鈴木先生」(2013)、「シン・ゴジラ」(2016)がある。出演映画「散歩する侵略者」が9月9日に公開。
河合 祥一郎 さん (かわい しょういちろう)
テレビドラマ番組審査委員長
東京大学大学院教授。専門はイギリス演劇、英文学、表象文化論。近著に「シェイクスピア~人生劇場の達人」(中公新書、2016年)、「新訳 まちがいの喜劇」(角川文庫、2017年6月)、「オイディプス王」(光文社、2017年9月)。そのほか「ハムレットは太っていた!」(白水社、サントリー学芸賞受賞)など著作多数。
リサーチを重ねて偉大な文豪「漱石」に臨む
この度は、演技賞受賞おめでとうございます。
ありがとうございます。
長谷川さんとは、蜷川さんの舞台の稽古現場で何度かご一緒したことがあり、『海辺のカフカ』初演(2012年)以来5年ぶりの再会です。今やテレビでも映画でも素晴らしい大活躍をされていますね。
今回の『夏目漱石の妻』で漱石の役が来た時はどんなお気持ちでしたか。
いつか文豪の役をやりたいという気持ちがあったので、とても嬉しかったです。
漱石のキャラクターを作るのはなかなか難しかったと思うんですが、何か準備をされたのですか。
準備の仕方には色々ありますよね。アンソニー・ホプキンスのように台本以外を全く読まない名優もいらっしゃる。そういうやり方もいいなと思ったんですが、僕の出自は文学座ですし、偉大な作家を演じさせてもらうからにはとリサーチしました。
かなり漱石についてお調べになったんですね。蜷川さん演出の舞台『コースト・オブ・ユートピア』(2009)で二役を演じ分ける時にも、熟考されていたのが印象的でした。長谷川さんの本領は、考えて考えて緻密に作り込むところかなと理解してるのですが、いかがでしょう。
ええ、それは本当にそうだと思います。たまにはあまり考えずにやってみることも大事かなと思って試すこともあるのですが、そういう時の映像を見返すと、何かが欠けているというか、自分の素朴さのようなものがそのまま出ちゃっているようで…。
今回の作品を拝見して、他の作品と比べても、より演劇的なアプローチをなさっているような気がしました。眉の上げ方や歩き方であるとか。普段の漱石の非常に神経質な感じもよく出ていましたが、第二話で、漱石がいよいよおかしくなってきて、火鉢の端に置いてあった五厘銭をロンドン時代の銅貨と錯覚する場面で、眉を吊り上げてものすごい表情をなさいましたね。あれは撮影される前に研究されたのですか?
研究してそのシーンに臨んだというわけではないんです。ただ、漱石のロンドン滞在中の日記などに、幻覚を見ているような記述が結構あり、それを読んで、どういう状況で人は幻覚を見るのかと考えたりはしました。疲れに伴い左右の目の焦点が合わなくなってくる。そんな感じで、五厘銭を見ながら、その場に無い銅貨を見ようと必死で焦点を合わそうとしていたかもしれません。
とすると、その場になって長谷川さんの中から出て来た演技なのですね。さすがの才能を感じます。歩き方などはどうですか。
色々調べて意識しました。漱石は毎日よく歩いていたから足腰はしっかりしていたんだろうなとか。相撲も結構強かったみたいで、運動神経はよかったんじゃないかとか。
姿勢もスッとしていて、如何にも学者然とした感じはありましたね。
僕は実際の漱石に比べて背が高かったので、それ以外の見える部分を意識するようにして、映像なのでそこは切り抜けられたかなと。
現場から作られていった漱石と鏡子の関係性
漱石の作品もお読みになったのですね。
結構読みました。以前に読んだものもありましたが、この作品に関わるものは、何度も繰り返し読みました。
例えばどの作品ですか。
『道草』ですね。その中に主人公が幼少時代を回想する描写があって、不思議な幻想小説のようなんです。漱石らしくて好きな作品です。
『道草』は漱石の自伝的小説ですね。
はい。ドラマの原作である鏡子さんが書いた『漱石の思い出』と『道草』では、同時期の事柄についてもその描写が全く違うんです。鏡子さんから見た漱石と、漱石から見た鏡子さんが対照的で、それがまた夫婦の面白さだなと思って。
そうですね。この作品では一貫して、「どうして私を愛してくれないの」という鏡子の思いと、「自分は作家として、男として立たなきゃいけない」という漱石の意志が、二つの合わないベクトルのように興味深く描かれていました。現場での尾野真千子さんとのやり取りはいかがでしたか。
監督が、結構初めの段階から二人に任せてくださって、リハーサルの時も何も言われないし、本番もぶっ通しでカメラを回し続けていましたね。
カットが入らないと、アドリブで続けるということになるのでしょうか。それはどういう場面でしょう。第二話の中で、「十万円欲しいぞ!」と二人で何度も叫び合って笑い合う、というようなシーンでしょうか。
確かに、あのシーンのラストもずっと回していましたね。
相手がどう出るかわからない中で、それに対応していくという現場だったのですね。
そうですね。僕がやることを尾野さんが上手く受けて投げ返してくれました。
そういう二人の関係性は、撮影でカメラが回る以前からコミュニケーションを通して作られていたのでしょうか。
勿論です。いつも尾野さんが僕に話しかけてくれていた感じですね。
ほぉ…、実は以前この賞を瑛太さんが受けられたことがあって、その相手役が尾野さんだったんです。その時の対談で、瑛太さんに現場のことを伺ったら、尾野さんとはコミュニケーションがほぼなかった、とおっしゃっていた。そのドラマでの二人はすれ違っている夫婦の役だったんですね。待ち時間も一切しゃべらなかったそうなんです。
尾野さんが?そうだったんですか。
今回は、彼女の役が、「私を見て、こっちに来て」という役だからガラッと変わったのかなと。
脚本の池端先生が後におっしゃっていました。ずっとケラケラ笑っている尾野さんがいて、真っ青な顔で一人で眉間に皺を寄せている僕がいる。台詞のことを聞くと、尾野さんは「私は今日のことしか覚えてないです」って言って、僕は「早く最終回の台本ください」って言う。そこまで対照的な二人がいたのを見て、このドラマはきっと成功すると思った、と。
二人とも役にぴったりですね。自由で大らかな鏡子と必死になって考えて神経衰弱になりそうな緊張感をもつ漱石。
そうか、尾野さんは現場から作っていたのですね。瑛太さんとの話を聞いて確信しました。
それは完璧なリサーチをされていた長谷川さんも同じですね(笑)。
異界に足を踏み入れるような瞬間
漱石のような昔気質の男というのは、現代人にはわかりにくい部分がありますね。そのあたりのギャップをどう乗り越えましたか。
そこは突っ込んで表現していかないとダメだと思っていました。明治の男尊女卑の時代ですし、漱石の“明暗”というのをちゃんと描きたいなと。
漱石がおかしくなっていき、家の中がめちゃくちゃになっていく、女中に対する暴力もひどい。ああいう人が今いたら完全にドメスティックバイオレンスですが、それをある種日常として生きていたということですよね。
そうですね。ただ、あれは漱石の中でのある意味芝居じゃないかなと思っていたんです。
それはどういうことでしょう。
漱石には、自分が家族を持っていなかったら、作家としてもっと違う作品が書けたんじゃないかという思いがあって、だからああいう家庭を壊すようなDV的なこともやって、それも自分の人生だって思っていたんじゃないかと。
なるほど。作品の中で、漱石は子どもの頃に何度も親に見捨てられたというエピソードが強調されていて、その上でせっかく得た家族である鏡子を自殺未遂であわや失うところだったとか、最初の子供を流産した時に辛かったという話がある。一方で、「お前は来るな」と鏡子を拒絶したり、子どもを怒鳴りつけて恐怖を与えたりする。そのギャップが、漱石の複雑さとして見る側に残るわけですよね。
そうなんです。僕はそこがすごく面白くてのめり込んだんですね。やっぱりこの人は役者の部分もあるなと思いましたし。
つまり、漱石が、「家族はいらない」「お前は来るな」と言うのは、ある種パフォーマンスであると?
パフォーマンスでありながら本心でもある。要は、子ども時代に家族にひどいことをされていながらも家族が欲しいと言っている時点で矛盾なんです。そういう両方の部分で生きている感じ。ただそれが何か言葉にはできない感情だなと思って。
ある種、男の我儘ですよね。
甘えもあるでしょうし、それをどう分析するべきかわからないですが、今回演じていて、その逆説的な気持ちの中にふっと入っていく瞬間が何度もあったんですよね。これってすごい経験だなって。
なかなかないことですね。
それぐらい、気持ちいいっていったら変なんですけど、ちょっと異界に足を踏み入れるような感覚でした。
確かな分析力が生み出す“漱石らしさ”
視聴者が見ていて惹き込まれたのは、“人間として苦悩している引き裂かれた漱石”と、“みんなが知っている夏目漱石像を裏支えしてくれる漱石”の両方を見ることができたからだと思います。それは長谷川さんの様々な分析力に因るところが大きい。例えば、教壇に立って英語を教える場面では、漱石はきっとそういう風に授業したんだろうなと感じました。英語の発音も非常にきれいでしたし。
あそこは、発音も練習しましたが、僕も少し勉強して、台詞をイギリスの知人に見せて直してもらったりしたんです。
Your reading is akin to that of a lower elementary pupil.(君のリーディングは小学生並だ)という台詞のなかのakin toなんて『三四郎』に出てくる表現ですから、いかにも漱石が使いそうな英語ですよね。
懐かしいな。リズムがこっちの方がいいとか、工夫したところです。
ナチュラルイングリッシュではなく漱石英語なんですよね。そういういろんなところに漱石らしさというのが出ていたと思います。
撮っていて苦労なさったところはありますか。
第四話の修善寺での大患の場面は本当に気持ち悪くなりましたね。咳したり血を吐いたり、変なところに力を入れていたら、気を失う寸前みたいな感覚になって。芝居とはいえ、辛かったです。
病の床で掠れた声を振り絞っている場面では、この人、本当に亡くなるかもと、真に迫るものがありました。
あそこで最後に、ずっと自分が拒絶していた鏡子に「うちに帰ろう」ってアドリブで言ったんですが、使ってもらえて嬉しかったです。
素晴らしい。その言葉を聞いて鏡子が涙をボロボロ流す。それが、歳を重ねた二人のラストシーンに繋がっていくのですね。
老けた漱石の顔が、千円札の漱石になればいいなって思って。あれをやれたのは本当によかったなぁ。
それはまさに漱石のレベルに到達することの面白さみたいな感じですね。
漱石に重なる自分
長谷川さんにとって漱石の魅力って何ですか。
漱石って文章もかっちりとしていて正統派でありながら、ロック精神がある、どこかアナーキーなところがある、そう思うんです。
漱石=ロック精神って初めて聞きました(笑)。ちょっと斜に見るような視点というか、何もかもをきれいに包み込まない、例えば『吾輩は猫である』の視線もそうですし、批評精神は高いですよね。
作家になりたいと思いつつ、不本意ながらも誠実に教師として勤めてきた。その経験が後の作品に全て活かされている。だからああいうカチッとしていながら崩すところを崩した文章を書けるんだなと。それがわかった時に、今まで劇団で真面目にやってきて、でも早く世の中に出たいなと思っていた、おこがましいんですけどそういう自分と重なる部分があって、この役は僕が演じたいと…そういう演じる意味での魅力を感じました。
なるほど、そのロック精神が長谷川さんの中にあるってことですね。それが作品にも反映されている。とても面白い話ですねぇ。
最後に、今後の展望などはありますか。
今は、ある程度なるように任せるのがいいかなと思っています。こういう役がやりたいと言うと実現しないっていう僕自身のジンクスもありますし(笑)。
今後ともぜひ役者としてご活躍ください。楽しみにしております。