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HOME読む・楽しむ戦いの証言 金田一 秀穂

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放送文化基金賞の受賞者へのインタビュー、対談、寄稿文などを掲載します。

2019年9月27日
第45回放送文化基金賞

ルポ

ラジオ番組 [奨励賞]

戦いの証言

金田一 秀穂

宮平さんの話を聞く金田一ラジオ番組審査委員長と狩俣アナウンサー

 今年のラジオ部門の応募作はすぐれた作品に恵まれ、ここ数年にない豊作年だったように思う。
 RKB毎日放送・TBSラジオ共同制作による最優秀賞の「SCRATCH 差別と平成」や、ニッポン放送・日本映画放送制作の優秀賞「ストリッパー物語」は、審査会場で全員の圧倒的な支持を得たが、奨励賞だった琉球放送の制作による「消せない記憶~元学徒兵の苦悩~」も、負けず劣らず、例年であれば最優秀賞に輝いてもおかしくない秀作だった。
 番組は、RBC琉球放送によると、以下のとおりである。

 日本で初めて中学生が戦場に駆り出された沖縄戦。 終始軍隊と行動をともにした少年達は壮絶な体験をしました。多くが尊い命を落とした事もさることながら、生き残った少年達も心に深い傷を負い戦後を生き抜いてきました。今年89歳の宮平盛彦さんは当時県立第一中学校 2 年生 14 歳でした。 終戦を知らず島内を数か月もさまよい続けた宮平さんは、たどり着いた壕で日本兵が日本兵を殺害する現場を目撃します。この記憶は宮平さんを苦しめ続けます。戦争は命を落とした方々の人生を奪っただけでなく、生き残った人達にも一生拭う事の出来ない苦悩を残しました。
 沖縄が鎮魂の祈りに包まれる「慰霊の日」に、琉球放送アナウンサーが毎年取り組んでいる平和朗読会。ことしは県立首里高校で行い、同高校の出身者である宮平盛彦さんの戦争体験記を題材として取り上げました。日本の歴史で初めて14 歳の中学生が陸軍二等兵として扱われ、軍隊と行動をともにした沖縄戦の狂気を伝えたく、あらためて取材を始めました。リサーチを進めるうちに命を落とした犠牲者だけでなく、生き残った少年達も心に深い傷を負い戦後を生き抜いてきたことを知ります。そこには教科書では紹介されない、個人の人生に起こった戦争のリアリティがありました。今も基地問題で揺れる沖縄ですが、番組を通して沖縄が戦争や軍隊に対する強いアレルギー反応を起こす一因を具体的に感じてほしいです。辛いお話をして下さった宮平さんに心から感謝いたします。
(RBC琉球放送HPより)

金田一 秀穂 さん

 この宮平さんが、会ってお話を聞かせてくださるという。勇躍、沖縄に出かけた。宮平さんは今年89歳になる。
 沖縄には何回も行ったことがあるが、ひめゆりの塔さえ行ったことがなかった。直接戦争に触れるのが怖かったし、中途半端に分かったような気がして終わるのも嫌だった。今回は、直接体験した人の話を聞くことができる。いずれ、わたしのような戦後生まれの本土育ちが、沖縄の戦いについてきちんと理解できるとは思えないけれど、本当に戦った人たちの話を聞くことができる機会は、僥倖というほかない。この機会を逃してはいけない。

 羽田空港は曇りだった。少し遅れて離陸したが、那覇上空で揺れ始めた。台風が来ているという。言われてみれば、確かにニュースでそんなことを言っていたが、東京は当たり前のような天気だったのだ。那覇空港上空をぐるぐると旋回しながら、1時間30分、着陸を待機させられた。強風で着陸するのが危険なのだという。それ以上飛んでいたら帰りの燃料がなくなるという限界まで待って、やっと着陸できた。本当に台風が来ている。こんなにも東京と違うところに来てしまった。同じ日本とは言え、東京にとって沖縄は遠く異なった場所なのだ。そうしてたまたま、東京が中央なのだ。沖縄の東京からの距離をつくづくと感じさせた。沖縄には当然のように違う歴史が流れる必然があるのだろう。
 飛行場は風が強かった。しかし、沖縄の人は平気そうで、緊張感も何もなく、日常的な暮らしをしているふうだった。とりあえず琉球放送に行き、この番組の制作者である狩俣倫太郎アナウンサーと安仁屋聡ラジオ局長にお話を聞いた。その後、那覇郊外の宮平さんのお宅に伺った。奥様とお二人でのお住まい。居間に使っている部屋のテーブルに案内された。

安仁屋ラジオ局長(左) 狩俣アナウンサー(右)

 宮平さんは、首里の一中の3年生になろうかという3月末のこと、異例のことだったのだが、兵士として召集されてしまった。一中は、現在の首里高校、当時も今も那覇の名門中学であり高校である。たとえば伊波普猷、徳田球一、元知事大田昌秀など、沖縄のリーダー、名士たちを多く輩出している。なまじ名門であるがゆえに、若年での徴兵という無理な命令が下ったのではないかとも思われる。
 宮平さんが徴兵された昭和20年の前の年、昭和19年の4月には全国学徒は軍需工場へ動員されることになった。文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を発令し、7月の「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」閣議決定によって、学徒動員の強化が目指され、文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課するなどを指令した。そうして、昭和20年の3月、全国規模で「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、これにより、一年の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられた。他の地域の中学生はあくまでも学徒動員であって、工場などの手伝いに動員されたのだが、沖縄は特別だったという。中学三年生になるところが、二等兵になったのである。

宮平家に掲げられている県立第一中の旗と「建学」の精神。

狩俣 倫太郎 さん(贈呈式にて)

 鉄砲は持たされなかった。最年少であり、使い走りのようなことをして、首里城の本部で働いていた。あまり怖い思いもしなくて済んだ。さすがに、まだ子ども扱いだったのだろう。6月23日に司令部が解散して沖縄戦が終結した。しかし、何もわからぬまま、大人たちの兵隊に連れられて、小さな部隊になって森の中をあてどなく進軍することになった。逃避行である。南へ向かった。途中、姉に出会うことができた。立ち話ししか出来なかった。姉から、家族全員が死んだことを聞かされた。姉はそのまま南へ逃げていった。宮平さんは兵隊たちと別方向へむかった。その後姉とは二度と会うことができなかった。

 「今でも、死んだとは思いたくないんです。」
 「民間の人たちとも出会うことがあったんですね。」
 「そうです、すれ違ったりしました。」
 「そのとき、軍服を脱いで、民間人の格好をしていたら、
 まだ子供だし、逃げずに済んだのではないですか。」

 「いやあ」

 考えたこともなかったという。
 日本の残存兵による戦闘は沖縄戦終結後も続き、8975名が戦死、2902名が捕虜になったといわれている。
 8月15日の夜は、沖のアメリカ軍艦から多くの照明弾が打ち上げられているのを見ていたが、アダンの森の中を逃げまどっていた彼らには、アメリカ軍がなぜそんなことをしているのか、まったくわからなかった。ずいぶんあとになって、あれはアメリカの戦勝祝いだったのだと知った。すべての情報が遮断されていた。南ではなく北へ行こうということになった。10月をすぎ、日本軍の残した食糧庫の壕の中に8人の兵隊たちと隠れていたところ、日本人の宣撫部隊の二人に壕を発見され、戦争は終わって日本が負けたのだと、投降を呼びかけられた。兵たちは、こんなことを言うのはスパイであろう、しかしこの二人に我々がいることを知られてしまった。帰らせたら大きな部隊が来て襲われてしまう、秘密を守るために生きて返すわけにはいかないとして、この二人を殺してしまった。

 その事件のすぐそばにいた宮平さんは、戦後の73年、ずっとその記憶を引きずって生きてきた。日本人が日本人を殺す。兵が兵を殺す。彼は戦後50年、誰にも語らず、ずっと黙っていた。結婚した奥様にも、それを話さなかったという。昨年、宮平さんのこの戦争証言の手記に、狩俣アナウンサーが平和朗読会で出会い、今回の番組制作につながった。壕で日本人に殺された兵の遺族にも会うことができて、交流することもできるようになった。

宮平さんの戦争証言が掲載
されている(2011年発行)

 戦争の悲惨を訴える番組は多い。多くは、被害者の視点から、ひどい目にあったという話だ。しかし、加害者としての視点を伝えるものは少ない。加害の記憶は語られることが少ない。ベトナムやイスラエルでは、戦争に行った兵士たち、帰還した兵たちの深い心の傷を扱う物がないではない。しかし、日本ではほとんどない。外地へ行った人々には、いまだに精神病棟に収容されている人々がいるという。殺すことはないまでも、紛争地に派遣された自衛隊員のなかには、精神的に傷ついてしまった人々が少なくないと言われている。24時間、生命の危険におびえながら暮らす体験は、過酷であろう。まして現実に戦闘に参加した人々の気持ちは、想像を超える。
 戦争したらいいではないか、と言う人がこの頃はいるらしい。攻めて来たらやっつければいいと思っている人はもっと多い。次はもっと強くなればいい。しかし、ことはそんなに簡単ではない。被害を受けたという話ばかり聞かされていると、では、負けずにやり返そうという気持ちになる。アメリカなどを見ていると、真珠湾攻撃の仕返しとして、あるいは9・11の仕返しとして、戦闘意欲が発動する。しかし、それは危険なのだ。
 戦争を嫌だと思っている人たちは戦後の日本にはとても多くいたように思う。しかし、いつの間にか、そういう人々が少なくなっていて、社会の指導者層の中にも減ってきているのではないか。
 少し前の大人たちは、あの時は怖かったから、殺されそうだったから、だから戦争に反対なのだ、と言っていた。戦争は悲惨だから、殺されてしまうから嫌なのだろうと私などは思っていた。しかし、空襲に見舞われた不幸な人々の向こう側に、ずっと沈黙していた加害者に回ってしまった人々がいて、その人々が戦争の残酷さを身に沁みて感じていて、言葉に出せないけれど、絶対に人を殺したくないという人々が、戦争に向かうことを断固として、強固に反対していてくれていたのではないかと、今になって思う。彼らは今や90歳を過ぎている。彼らのじかの言葉を聴けるのは、今が最後なのだ。

 実を言うと、私たちの取材の間、奥様もずっと一緒にいて、わたしたちと宮平さんの話を聞いていた。そうして、だまって、何度もうなづき、何度も涙をぬぐっておられた。奥様にも同じような沖縄の戦争の悲惨な記憶がしっかりとあるに違いない。生き残った沖縄の人の全員に消せぬ記憶がある。今いる沖縄の人々の中で、近い親戚が戦火に亡くなった人のいない人はいないだろうという。東京から遠く、中央からも遠い沖縄の戦争は、まだまだ全然終わっていないのだ。

制作スタッフと会食
(左奥から多和田さん、諸見里さん、狩俣さん、仲村さん
 右奥から安仁屋さん、金田一さん、田久保さん)

プロフィール

狩俣 倫太郎 さん (かりまた りんたろう)
RBC琉球放送 アナウンス室長
1996年RBCに入社。報道部記者を経てアナウンス室に配属。以後、アナウンサーとしてテレビ・ラジオの様々な番組に出演、またディレクターとして関わる。MCを務めるラジオ生ワイド番組「Music Shower Plus+」は第52回ギャラクシー賞優秀賞受賞。ディレクターとして担当したラジオ番組「同性パートナーシップ制度について考える」は2017年日本民間放送連盟賞優秀賞受賞。