インタビュー
放送文化基金50周年記念賞
「経営と創造の両立」をめざして半世紀
第50回放送文化基金賞には「放送文化基金50周年記念賞」が設けられた。放送の歴史を視野に入れ、放送文化の向上に大きく貢献した5件が選ばれた。日本初となる独立系のテレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」の創設に参加し、今は会長・ゼネラルディレクターの重延浩さんは受賞者の一人だ。50周年記念賞の審査に当たった放送評論家の鈴木嘉一さんが、重延さんにインタビューした。
―― この記念賞は「50年に一度の賞」となります。TBSの『世界ふしぎ発見!』を一緒に作ってきた黒柳徹子さんも受賞されました。
「50年に一度」とは、とても光栄ですね。黒柳さんは、私がTBSでドラマのAD(アシスタント・ディレクター)をしていたころからの知り合いで、60年来の仕事仲間です。お互いに「幼なじみ」と呼んでいます。
テレビマンユニオンの創設に参加してから、初代社長の萩元晴彦さんに「アメリカに行ってこい」と言われました。ICU(国際基督教大学)卒なので、英語が多少話せると思われたんでしょうね。駐在はたった一人ですから、何かを撮影をするにしても現地のカメラマンらのスタッフを雇わなければいけない。何から何まで一人でこなした経験は「組織に頼らないで、何でも自分でやる」という自分自身の原点になりました。私がアメリカにいたころ、黒柳さんもニューヨークの演劇学校に通っていたことを後に知りました。そんな黒柳さんと一緒の受賞は特にうれしいですね。
―― 7月9日の贈呈式では、「50年前に何をしていたかを考えると、まだ誰もやったことのないテレビジョンをやりたかった」と受賞の弁を語っていました。重延さんはずっと以前から「テレビ」ではなく、「テレビジョン」と言ってきましたね。『テレビジョンは状況である』(岩波書店)という著書があるほどです。
「テレビ」というと、ただ「遠くのものが映る」という機能だけのように聞こえます。でも、「テレビジョン」という言葉には、未来を見つめる「見識」「視点」という概念が込められています。テレビジョンには文化的で、多様な意味があります。テレビジョンにはまだまだ文化的可能性があると信じています。
―― 重延さんがTBSに入社したのは1964年、東京オリンピックの年ですから、テレビマン生活はちょうど60年になります。そのままTBSにいたら、とっくに定年を迎えていたでしょうね。
TBSに入って1年後、希望していた演出部門に配属されました。ドラマを担当する第一演出部に行き、久世光彦さんが演出していた『七人の孫』のADからスタートしました。自分では良いADだったと思っています。ところが、なかなか一本立ちさせてもらえず、後から来た後輩にも追い越されてしまいました。仕事があまり無いという状態はつらかったですね。時間はたくさんあるんで、映画をしょっちゅう見に行きました。ある時、先輩にTBSの廊下で声をかけられ、立ち話で新しい組織への参加を求められました。参加予定者のリストを見せてもらったら、萩元晴彦さん、村木良彦さん、今野勉さんらのすごい顔ぶれだったので、その場で「じゃあ、僕も一緒に行きます」と簡単に返事をしてしまったんです。
1970年にTBSを集団退社した創設メンバーの中では最年少でした。札幌市にいた僕の家族は「どうしてTBSをやめるんだ」と驚き、妻の父親は心配のあまり札幌から東京にすっ飛んできました。でも、私はテレビマンユニオンを選びました。
テレビマンユニオンという組織は、それぞれが株を持つ「メンバーシップ制」をとっており、定年はないんです。ピカソが90歳近くなっても絵を描き続けたように、創造に定年はありません。まだまだ仕事をしたいと思えば、「名誉メンバー」という形で残ることができます。
―― テレビマンユニオンが初めて製作した映画は、ベネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受けた是枝裕和監督のデビュー作『幻の光』(1995年)でした。石川県輪島市でロケをしたこの映画は8月、合津直枝プロデューサーが尽力し、東京・渋谷などの映画館で能登半島地震の輪島支援のために特別上映されます。テレビマンユニオンでは今や、劇映画かドキュメンタリー映画かを問わず、映画を作るのがすっかり当たり前になりましたね。
合津さんと是枝さんが「こういう映画を撮りたいんですが」と申し出た時、社長として即座に「やりましょう」と言ったら、2人とも「えっ」と驚いた表情を覚えています。即断したのは、2人の眼がキラキラ輝いていたからです。ただし、経営方針にかかわることなので、メンバー総会に諮ると、「興行的に失敗したらどうするんだ」という慎重論も当然ながら出ました。それでも、時間をかけて社内を説得しました。能登半島のロケには私も行きましたね。そうして生まれた『幻の光』がベネチアでいきなり受賞したのは、本当にラッキーでした。
プロデューサーだったら、監督やディレクターといろいろやり取りをしますが、ゼネラルプロデューサーの仕事は二つだけです。企画を持ってきた時に「やりましょう」とゴーサインを出すことと、完成試写会で「ありがとう」とスタッフをねぎらうことです。中身にはほとんど口を出しません。
―― テレビマンユニオンは今や、テレビ番組だけを作る会社ではなく、映画や音楽、舞台、配信事業まで手がけるクリエイター集団になっています。
テレビマンユニオンに参加してまもなく、私は自主企画で「新宿アウトロー・ショー」と題した梶芽衣子さんの歌謡ショーを制作・演出しました。梶さんの『怨み節』がはやっていたころです。黒柳徹子さんの芝居を撮り続けた時期もあります。2代目社長になる村木良彦さんがテレビマンユニオンの創設時、「テレビジョンを軸にしてあらゆるメディアにかかわっていく」と宣言したとおり、私自身もテレビマンユニオンも、さまざまな創造や表現行為を追求してきました。
―― 重延さんは社長を長く務め、今は会長として経営にかかわりながら、番組作りなどの創作活動も続けてきました。「経営と創造の両立」について話してください。
テレビマンユニオンの創設時、番組を作ることしか知らない人間ばかりで、経営者は一人もいませんでした。「テレビマンユニオンは社長を投票で選ぶ」と誤解されていますが、正確に言えばメンバーの投票で複数の代表を選び、その互選で社長を決めるのです。「経営と創造の両立」をめざすのがテレビマンユニオンの理念、組織論であり、ほかの企業には見られない特色です。
私は以前から「60歳になったら社長をやめる」と表明していました。その時が来たら、「どうしようか」とあれこれ考えた末、「社長の邪魔をしない」という前提で初の会長に就きました。
―― 映画ではゼネラルプロデューサーと称しているそうですが、テレビ番組作りではプロデューサーとディレクターの両方を兼ねています。どういうふうに使い分けているんですか。
『世界ふしぎ発見!』では当初、企画・プロデュースという立場で、自ら演出した回もありました。テレビマンユニオンは自由な社風なので、それぞれが名乗りたいように名乗ればいいという雰囲気があります(笑)。「ゼネラルディレクター」というのも、自ら言いだした言葉です。
―― その『世界ふしぎ発見!』は1986年4月から始まり、今年の3月末で38年間の歴史に幕を閉じました。放送文化基金賞の贈呈式では次のようにあいさつしました。「レギュラー番組としては終わると聞いた時、『世界が平和でなければこの番組の放送はふさわしくないでしょう。テレビジョンは世界を平和にするためにあります。世界が平和になるまで休みましょう』と答えました」とね。
「休止」とは私の気持ちを表したものです。『世界ふしぎ発見!』は今でも人気があり、内容を評価してくれる人は多かったし、「終わってほしくなかった」という声も多数寄せられました。今後はスペシャル版として続き、この秋には第一弾が放送される予定です。
―― 50周年記念賞の贈賞理由には、テレビ番組制作会社の地位を向上させる一連の活動も挙げられています。
「下請け」という言葉は嫌でしたね。クリエイティブな仕事には上も下もありません。若いころアメリカに駐在し、制作プロダクションやユニオン(労働組合)が放送局と対等な立場で番組を作っているのを見てきました。全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)では副理事長として、プロダクションの社会的地位の向上や著作権問題に取り組みました。放送局だけを相手にするのではなく、放送業界を所管する総務省や、コンテンツの流通や海外展開を促進する経済産業省にも働きかけてきました。
―― テレビマンユニオンは創設50周年を迎えた2020年2月、記念パーティーを開催するはずでしたが、急速に広がるコロナ禍のため直前に中止しました。その代わりと言っては何ですが、2023年5月には「4人を偲ぶ会」が東京の学士会館で開かれました。『オーケストラがやって来た』(TBS)など数々の音楽番組を手がけた大原れいこさんをはじめ、3年の間に死去したテレビマンユニオン創設期のメンバーを悼みました。4人の代表作を紹介する映像は4月に入ったばかりの新人たちが編集したことからも、後輩や仕事仲間、遺族のスピーチからも、「同志」への敬意がうががえて、テレビマンユニオンらしいと感じました。
確かに、4人は同志でした。偲ぶ会についてほめていただきましたが、私たちは何をやるにしても常に「独創的でありたい」と思い、そうしてきただけなんです。私たちにとってはあれが当たり前の人間的、組織的な心の表現なんです。「自由・民主・独創」の組織でありたいと思っているんですよ。
(7月22日、放送文化基金事務局で。構成・鈴木嘉一)
プロフィール
重延 浩 さん(しげのぶ ゆたか)
株式会社テレビマンユニオン 会長・ゼネラルディレクター・取締役
1964年、東京放送(TBS)に入社、テレビ演出部所属。 1970年、日本初の独立系制作プロダクションである株式会社テレビマンユニオンの設立に参加。1986年、同社の代表取締役社長に就任。同年より、2024年3月までTBS『世界ふしぎ発見!』の企画・プロデュースを担当。2004年、第55回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2012年より現職。
鈴木 嘉一 さん(すずき よしかず)
放送評論家・ジャーナリスト
元読売新聞東京本社編集委員。1985年から放送界の取材を続ける。著書に『テレビは男子一生の仕事 ドキュメンタリスト牛山純一』『大河ドラマの50年』『桜守三代 佐野藤右衛門口伝』『わが街再生―コミュニティ文化の新潮流』など。