ディレクターを始めて5年ぐらいが経った頃、某大手広告代理店の偉い人が講演会で「我々代理店がテレビに求めているのは、エンターテインメントだけ」というようなことを話しているのを聞いた。しかし、「発想豊かに…」という発言とは裏腹に、その人が我々ディレクターに「求めている」エンターテインメントは、ごく限られた価値観によって決め付けられた、非常に幅の狭いもののように感じられた。「ああ、こういう思考に支配されて、今の画一的なテレビ文化があるのか…」と、若いなりにがっかりした。
それから7年余り、ディレクターの目で観てきたテレビは、一部のドキュメンタリーやニュース番組を除けば、ほとんどがその「限られた価値観」の範囲内にあったような気がする。そして30歳を過ぎた頃、その「限られた価値観」が地方文化を非情なまでに侵し続けていることに、腹ただしく思うようにもなった。
だからこそ、地方局はしっかりしなければならない。「限られた」範囲を超えることは、もはや東京ではできないと思うからだ。地方では地方の価値観で、東京とは違う放送文化を今からでも創り直すことができるような気がする。
地元でエンターテインメント番組をやる限り、僕は「限られた価値観」によって生まれた手法を使わないことにした。例えば、バラエティ番組ではアバンもCM前のキャッチもやらない。つまり、冒頭に興味をそそるシーンをテンポよく重ねて、最後まで見させようとはしないし、「結果はCMの後」っていうのもやらない。どちらも視聴率をとるための常套手段だが、僕の新春番組は「あけましておめでとうございます」ではじまる。どのネタも最後まで見せてからCMに入る。せっかく観てくれている地元の人たちの気持ちを分断したくないし、何度も同じ絵をリピートしてうんざりさせたくないからである。逆に言うと、地元の人たちが観てくれているシチュエーションや心理が想像できていれば、手法でごまかす必要はない。それでも26%以上の高視聴率をとることができるし、放送から数年を経ても話題になるくらい地元で愛されている。そういう番組づくりを何年か続けるうちに思うようになったのは、「限られた価値観」に支配され、常套手段を使わないと我慢できなくなっている東京の制作者は、やはり弱いということ。
しかし、その「限られた価値観」もごく最近になって崩壊の兆しが見えてきたと思う。例えば、HDDなどに溜まった好みのプログラムから、観たい順に再生するのが次代のTVの観方だとすれば、ソフトの価値は視聴率からストック率やリピート率にシフトしていくのではないか。そうなれば放送のあり方や売られ方は変わらざるを得ない。少なくとも現在のような常套手段や手法はわずらわしいものとして無視され、より内容が重視されていくと思う。何度も見るに値するかどうか・・・。
まさにそういうタイミングで、地上波デジタル化という「TVを使う時代」がやってきた。他のメディアにあって、テレビに欠けていたもののひとつである、「情報に対する受け側の選択権」が加わるのである。その特性は、全国という不特定多様種を相手にしなければならない立場よりも、より狭い地域に密着している我々の方が生かせるのではないか、と最近思うようになった。
そのデジタル放送においても「限られた価値観」の範囲内では大きなメリットを見出せないようで、特に売る側の尻込みは続きそうな気配がある。しかし、地方の事情はちょっと違う。特に僕が住む富山県では、今年10月のデジタル放送開始時点で受信エリアは70%を超え、数年後には90%以上をカバーする予定である。東京とは違うスタートが切れ、少なくとも何年かは事情の違いが持続する。この期間が、ひょっとすると「限られた価値観」を超え、地方ならではの放送文化を確立するチャンスなのかもしれない。東京と地方、まったく別の放送文化をつくることができれば、放送によって地域文化を守ることもできるような気がする。
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